2018/7/
皆様、こんにちは。今回は、アロイジオ・グアネッラ神父について紹介します。
グアネッラ神父は、1842年12月19日にイタリアのカンポドルチーノで生まれ、1854年に教区の神学校に入り、1866年に司祭に叙階されます。1874年にサレジオ会に入会し、1877年に教区に戻り、青少年の教育、若者と高齢者への奉仕を行う御摂理のマリア修道女会を創立します。1886年には、愛徳の奉仕者修道会を創立します。1915年10月24日に亡くなり、1964年10月25日に列福、2011年10月23日に列聖されます。
彼の生涯からわたしたちが学べること、特に、グアネッラ神父を通して垣間見ることが出来るドン・ボスコの姿を3つ挙げたいと思います。
○積極的な助言
グアネッラ神父は、司祭に叙階されてからサヴォーニョ村の助任司祭として働きますが、同時に、よりキリストに従った生き方に憧れを抱き、当時、トリノで貧しい青少年に奉仕していたドン・ボスコに魅力を感じていきます。そして、1874年に入会の許可を得、ドン・ボスコは、彼を成人召命の事業の担当者とします。その後、ドン・ボスコは、アロイジオのオラトリオの院長となった彼に、説教には逸話、例え話、微笑みを入れ、子どもの興味を誘う工夫をするよう勧め、また、直接会って話せないことから、会員の霊的な事柄を優先すること、経済的自立などの支部の院長への指針を手紙で書き送っています。ここから、ドン・ボスコが会員に積極的に助言を与え、会の物的・霊的面を支えていたことが分かります。
○会員に対する愛情
しかし、会員となった後も、グアネッラ神父の心には、社会から見放された人々をより良く助けるために教区の修道会を創立する思いがありました。初めは、ドン・ボスコの助けもあり、自分の願いを放棄するよう努めていましたが、3年の誓願が終わる頃には、その思いが強くなるのを感じました。そのため、ドン・ボスコは、活動を控えて、十字架のイエスと語り合い、最期に自分に大きな満足をもたらすものが何かを教えてもらうよう勧めます。一方で、ドン・ボスコは、霊魂の救いのためにもがき苦しんでいる自分を見捨てないで欲しいという願いやアメリカ大陸への宣教への依頼をします。ここから、会を離れようとしている会員にも深い愛情もって接しているドン・ボスコの姿が見られます。
○退会した会員への信頼
ドン・ボスコからの助言と愛情を感じながらも、グアネッラ神父は、教区で自分の事業を行うことが主からの招きだということを確信し、コモ教区に戻ります。しかし、彼の事業は人々の強い反対によって崩壊しかけます。そして、識別の後、グアネッラ神父は、サレジオ会に再入会する願書をドン・ボスコに提出し、コモ教区の事業との関係を解消すること、どんな任務でも引き受ける心構えを持つことを条件に入会が許可されます。その任務とは、彼が退会する前にドン・ボスコから依頼されていたアメリカ大陸への宣教だったのです。ここから、ドン・ボスコがグアネッラ神父を一度退会したとしても深く信頼していたことが分かります。
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2018/6/
皆様、こんにちは。今回は、ヨセフ・カファッソ神父について紹介します。
カファッソ神父は、1811年1月15日にカステルヌヴォで生まれ、1833年9月22日に司祭に叙階されます。1834年には、トリノにある司祭研修学院(グアラ神父が創設)で学び、後に、監督教官、倫理神学の教授となります。グアラ神父が亡くなった1848年からは、研修学院の院長となり、ドン・ボスコを含め多くの若い司祭の養成に力を注ぎます。1860年6月23日に亡くなり、1925年5月3日に列福、1947年6月22日に列聖されます。
彼の生涯からわたしたちが学べることを、特に、霊的指導の観点から3つ挙げたいと思います。
○召命のきっかけを与える
カファッソ神父は、病院、慈善施設、貧しい家等を訪問する中で、投獄されている囚人のために神の愛を証することが自分の務めであると感じ、刑務所での使徒職に力を注ぎます。ある時、ドン・ボスコをそこに連れて行ったことが、彼の貧しい青少年のための教育者としての召命のきっかけとなり、その話を聞いたカファッソ神父は、彼の召命を後押しします。ここから、わたしたちは、わたしたちにとって、青少年に召命のきっかけを与え、それを促し導くことがいかに重要であるかということが分かります。
○共に召命について考える
ドン・ボスコは、12歳の時に当時神学生であったカファッソ神父に出会います。その後、カファッソ神父は、ドン・ボスコが司祭になった1841年には家庭教師や教会での司牧よりも研修学院での勉学を優先すること、1847年にはフランシスコ・サレジオのオラトリオの規則を作ること、1855年には夢や自分の死の予告を子どもたちに話すこと、青少年のためのゆるしの秘跡の手引きよりも『イタリア史』を執筆することを優先することなど、貧しい青少年のための奉仕の召命を促すだけでなく、ドン・ボスコのあらゆる事柄についての話を聞き、指導しました。ここから、わたしたちは、青少年の召命をその人の人生と一緒に考え、指導することが求められていると言えるでしょう。
○意見の対立も一つの指導
しかし、カファッソ神父は、常にドン・ボスコの味方であった訳ではありません。例えば、彼は、ドン・ボスコのオラトリオの運営の仕方に対して、あまりにも秩序や規則がないことを指摘しています。また、倫理の分野において、善い行いはすべてよく行うべきと考えるカファッソ神父と状況において最善を尽くせば十分であると考えるドン・ボスコとが対立することもありました。ここから、わたしたちは、青少年に召命のきっかけを与え導くなかで、時に対立することもあり得ることを弁えておく必要がある、ということが分かります。
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2018/5/
皆様、こんにちは。今回は、アロイジオ・オリオーネ司祭について紹介します。
アロイジオ・オリオーネ司祭は、1872年にイタリアのポンテクリオーネで生まれ、13歳でフランシスコ会に入りますが、厳しい生活に慣れず肺炎を患い1年後、故郷に戻ります。1887年にヴァルドッコにあるオラトリオでドン・ボスコと出会い、1895年に教区司祭となります。1908年には、み摂理の修道会、愛徳宣教の小さな姉妹会、神の摂理の隠遁士会といった修道会を設立します。1940年3月12日に亡くなり、1980年10月26日に列福、2004年5月16日に列聖されています。
今回も彼の生涯から私達が学ぶことが出来る4つのポイントを挙げたいと思います。
○貧しい人の中にキリストを見る
オリオーネ司祭が10歳の時の話ですが、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタ25:40)という聖書の箇所を読んで回心したという出来事があります。その体験以来、彼は、父親の道路舗装工の仕事を手伝う中で、ずぶ濡れの老人に母から買ってもらった自分の傘を渡し、食べ物に困った身体が不自由な男性が来た時には、自分の弁当を渡すなどの善い行いをするようになりました。この話から、オリオーネ司祭が、貧しい人との関わりを通してキリストを見ていたことが窺えます。私たちも、青少年を通してキリストと出会う経験をしたいものです。
○模範の大切さ
オリオーネ司祭には、自分の生き方のモデルとなる人がいました。それは、ポンクリオーネの司祭であったミケーレ・カッタネオ神父とドン・ボスコです。二人の司祭の共通点は、貧しい人たちへの奉仕活動を行っていたことです。幼い頃から貧しい人への奉仕に熱心だったオリオーネは、目に見える模範であるその二人の司祭に憧れて、教区司祭となり、新たな修道会を創立し、貧しい人、特に、貧しい青少年の為に生涯を捧げます。特に、自らのオラトリオの完成時の第一声はドン・ボスコへの感謝でしたし、生前から「現代に生きるドン・ボスコ」と言われるほど、オリオーネ司祭のドン・ボスコに対する思いが感じられます。ここから、目に見える模範の大切さが分かります。
○オリオーネ司祭から見たドン・ボスコ
オリオーネ司祭が、なかなか機会の得られなかったドン・ボスコからのゆるしの秘跡で、自分の罪を書き留めた三冊のノートを破られた話は有名ですね。ドン・ボスコは、オリオーネに「私たち二人はいつだって友達だろう」と言ってこの秘跡を終えますが、その言葉は、彼にとって、オラトリオの中で直接関わることが少なくても、自分のことをいつも見守ってくれている人がいると感じられるものだったように思えます。この出来事から、ドン・ボスコのオラトリオの子どもに対する温かい眼差しが感じられます。
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2018/4/
皆様、こんにちは。今年度は、修練院からBontaに新しく投稿させて頂きます。今年の修練院では、サレジオ会の精神をより良く学ぶために、サレジオ会の聖人、福者、尊者を順に自分の感想を加えながら皆様に簡単に紹介することとなりました。何卒、宜しくお願い致します。この記事を、日曜学校の要理や講話等に役立ててくだされば幸いです。
さて、今回は、ドメニコ・サビオについて、紹介します。彼は、1842年4月2日にイタリアのキエリのリヴァで10人兄弟の長男として生まれ、1854年10月2日にベッキでドン・ボスコと出会い、彼のオラトリオで過ごします。1856年に無原罪の聖母信心会を立ち上げ、その1年後にモンドニオで亡くなります。そして、1933年7月9日に尊者、1950年5月5日に福者、1954年6月12日に聖人となります。
これから、彼の生涯から私達が学ぶことが出来る3つのポイントを挙げたいと思います。
○「罪よりも死を」
この言葉は、7歳の彼が初聖体を受ける時に書いた4つの決意のうちの一つです。ところで、「罪よりも死を」という言葉から、私達は、彼が神様から離れるような事柄を避けることに重点を置いていたと想像出来ますが、実際は、罪という言葉の前に「心の清さに対する」という言葉があるのです。つまり、ドメニコにとって大切なことは、罪を犯さないということよりも、自分の心を清く保つことだったと言えます。そして、その清さこそが、若者にとって、神様と自分をつないでくれるものであると彼は考えていたのです。さて、私達にとって「心の清さ」とは何でしょうか。
○友の間での聖人
彼が聖人になる望みを抱いたのは、1855年のドン・ボスコの講話がきっかけでした。その後、ドメニコは、自らの望みを打ち明け、明るさ・勉強・祈り・周囲の人への善行が聖人になるための秘訣であるとアドバイスを受けます。彼は、多くの話をして場の雰囲気を盛り上げるだけでなく、仲間の喧嘩の仲裁や新しくオラトリオに来た子どもへの配慮も忘れませんでした。特に注目すべき点は、マリア月には必ず仲間をミサに誘い、また、マリアの生涯について友達に話し、さらに、無原罪の聖母信心会を仲間と共に立ち上げ、聖人へ道も歩んで行く姿です。私達も彼の姿から共同体の在り方を学ぶことが出来るように感じます。
○自分の行動とキリストの姿
ドメニコが学校の友達から不正を受けたにもかかわらず、自分が無罪であることを主張しなかった話は有名ですが、彼がそうした理由をご存知でしょうか。実は、彼は、ただ抵抗できなかったのではなく、不正の故に罪人扱いされても抵抗しなかったイエスの姿を自分の行動と重ね合わせていたのです。また、冬に自分を覆うシーツ1枚で過ごす彼の苦行も馬ぶねと十字架の上で自分を覆うものがなかったイエスの姿と結び付いているのです。さて、私達の思い、言葉、行いはイエスのどのような姿と結び付いているのでしょうか。